板橋区吹奏楽団 <東日本大震災:復興支援プロジェクト>私たちは音楽のチカラを信じている・・・「音楽」で届けよう! 被災地にチカラを。 がんばろう、日本! 被災地視察、楽器の寄贈、訪問演奏
板橋区吹奏楽団 復興支援プロジェクト 物語

●板橋区吹奏楽団の『復興支援プロジェクト』の始まり

岩手県の釜石市民吹奏楽団は、2011年3月11日の東日本大震災の津波到来により、楽器倉庫が被災しました。多くの楽器が津波によって流され、泥の中に埋まり、その後に流失した楽器の捜索をしましたが、発見できたのは、わずか数台の楽器でした。
あの大災害にもかかわらず、幸いな事に団員全員が無事とのことでしたが、結果的に90%以上の楽器を喪失、練習会場であり発表の場であった、釜石市文化会館も被災し、事実上活動することが不可能となってしまったのです。


【被災した釜石市民文化会館の正面の様子(インターネット上の情報より)】


震災発生直後から復興のために何ができるのか模索していましたが、自然の猛威の前に、己の無力さにただただ呆然とするほかありませんでした。大災害の混乱の中、被災地の吹奏楽団に関する情報は皆無でした。何もできないもどかしさばかりが日に日に増していく中、2011年5月30日、たまたまテレビを見ている時、フジテレビの情報番組「知りたがり」の一つのコーナーであった“被災地伝言板メッセージ”で、被災地で吹奏楽の復興に尽力されている方のことを知り、早速連絡を取りました。この方は、岩手県の盛岡吹奏楽団の団長、安倍一洋様(岩手県社会人吹奏楽協議会会長)でした。安倍様は元々釜石市民吹奏楽団の団員だったそうで、釜石をはじめとして各地の吹奏楽団の被災状況を教えていただきました。そして今回の楽器寄贈の打診とご仲介の依頼をご快諾いただき、その後のご尽力によって、今回の震災で壊滅的被害を受けた釜石市民吹奏楽団団長の野舘憲一様とコンタクトを取ることができました。

釜石市民吹奏楽団は、今回の震災によって、やむなく1年間の活動休止を宣言していました。遠く離れた東京にいる私としましても、災害に遭われた方々の心境に想いをはせてはみても、やはり想像を絶する悲劇的な心境なのだろうと感じていました。
当初、釜石市民吹奏楽団様は「この悲惨な状況下で、楽器を演奏している場合ではないとも思うし、もう少しゆっくり復興していきたいのです。」との心情を吐露されていました。

それから数日経った頃、安倍様より「釜石市民吹奏楽団さんから、『板橋さんからの楽器寄贈のお話に、このまま甘えて良いのでしょうか・・・』と相談も受けました。しかし私は、“音楽の仲間が助けに来てくれるのだから”と言うと、とても喜んでくれました。できましたら、このままこのお話に甘えさせて頂ければとても嬉しいです。」と連絡があったのです。この日が6月8日です。そこで早速、楽器を寄贈する為の段取りと、岩手の方を元気づけるための演奏会を開催できないか企画プロデュースを開始しました。

板橋区吹奏楽団 復興支援プロジェクト 物語 被災したサックス 緑青 海水に浸かった楽器は何度磨いても、次から次へと緑青が浮かび上がってきてしまう・・・ 板橋区吹奏楽団 復興支援プロジェクト 物語 被災したサックス 緑青 海水に浸かった楽器は何度磨いても、次から次へと緑青が浮かび上がってきてしまう・・・
【海水に浸かった楽器は何度磨いても、次から次へと緑青が浮かび上がってきてしまう・・・】


多くの問題がありましたが、最大の問題点は、楽器を寄贈するタイミングをいつにするかということ、釜石市民吹奏楽団側の受け入れ準備や新しい楽器倉庫の確保でした。また、どのような場で寄贈するのが最も相応しいのかも悩みました。釜石市民吹奏楽団の団員の中には釜石市役所で働いている方もいるそうで、避難所となっている体育館での訪問コンサートを開催し、その場で寄贈することも考えました。

一方で、やはり東京にいる私には情報が不足していたため、どのようにしたら避難所でコンサートが出来るのか悩んでいました。避難所では、自衛隊の音楽隊や地元の高校の吹奏楽部などが慰問演奏をしていると安倍様から伺い、今まで考えていたコンセプトの方針を転換することにしました。被災した“人々”を訪問するのではなく、被災した“吹奏楽仲間”を訪問し親交を深め、元気づけることにしたのです。

そこで安倍様に10月2日開催予定の社会人吹奏楽協議会(岩手県の社会人吹奏楽団体が所属している)主催のジョイントコンサートに特別に出演して、一緒に演奏させてもらえないか打診をしました。東京から楽器を持って行き、岩手の吹奏楽仲間と共に演奏し、演奏終了後にそのまま釜石へ寄贈楽器を搬入したいと提案しました。

9月7日には岩手の安倍様を訪問し、事前打ち合わせをさせていただきました。安倍様、野舘様にもこの提案にご賛同いただき、板橋区吹奏楽団がジョイントコンサートに参加する事となりました。上野団長には板橋区文化・国際交流財団とのパイプ役になっていただき、板橋区長坂本健様の親書も一緒にお届けする段取りをはじめとした諸準備が整いました。

板橋区吹奏楽団 復興支援プロジェクト 物語 被災地視察 訪問ルート 釜石市内 板橋区吹奏楽団 復興支援プロジェクト 物語 被災地視察 訪問ルート 釜石市内
【事前視察で釜石市内全体をまわり、訪問ルート等を検討した。】


●被災地へ向けて出発。そして目の前に広がる光景は・・・

10月1日の夜、グリーンホールでの練習終了後、夜行のチャーターバスにて東京板橋を出発し、翌10月2日の早朝に釜石に到着しました。被災地訪問の計画段階においては、マスコミのフィルターを通して被災地を見るのではなく、被災の現場に自らの足で立ち、目に入って来る光景、臭い、手触りなどから、何を感じて何を想うのか、東京と現地のギャップの存在、今までの思い込みや無関心への自省など、多くのことを感じるに違いないと信じていましたし、今後、自分達に何ができるのか、これから向う盛岡でのジョイントコンサートではどのような想いで音楽を奏でるのか・・・、言葉では語りきれない体験と深い思慮を得られると考えていました。一方で、復興の邪魔になるのではないか、余震などの危険が伴うのではないかと危惧もしましたが、バス会社との連携しながら訪問ルートや訪問場所の安全について検討した上で、各自の使命感と自己責任において参加してもらうことにしました。

板橋区吹奏楽団 復興支援プロジェクト 物語 出発前グリーンホールでの集合写真と夜行チャーターバス車内の様子  板橋区吹奏楽団 復興支援プロジェクト 物語 出発前グリーンホールでの集合写真と夜行チャーターバス車内の様子
【出発前グリーンホールでの集合写真と夜行チャーターバス車内の様子】

早朝6:00過ぎ、澄み切った釜石の空は高く、気温は2度。冬のツーンとした空気。海岸の前にある陸中海岸グランドホテルまで歩いて視察をしました。流された跡の無残な建物やむき出しの基礎、お茶碗やテレビのリモコン、家族や子供との写真など生活の中心にあった品々が散乱する中、実際の現場に立った団員達は、多くを語ることはありませんでした。しかし、この果てない空の下、悲しくない人がいるのでしょうか。寂しくない人がいるのでしょうか。私たちは、朝陽の浮かぶ釜石の海に向かって静かに立ち、黙祷を捧げました。

板橋区吹奏楽団 復興支援プロジェクト 物語 岩手県 釜石市 陸中海岸グランドホテル。二階の窓が破れたままになっている。  板橋区吹奏楽団 復興支援プロジェクト 物語 岩手県 釜石市 陸中海岸グランドホテル。二階の窓が破れたままになっている。 / 海岸に立ち被災地を視察する団員。
【陸中海岸グランドホテル。二階の窓が破れたままになっている。 / 海岸に立ち被災地を視察する団員。】

板橋区吹奏楽団 復興支援 物語 東日本大震災の大津波によって浸水した釜石市の地図(昭文社:東日本大震災復興支援地図より)
【東日本大震災の大津波によって浸水した釜石市の地図(昭文社:東日本大震災復興支援地図より)】

板橋区吹奏楽団 復興支援 物語 写真の左が陸中海岸グランドホテル。右隣のビルのシャッター部分と階段の跡の比較。
【写真の左が陸中海岸グランドホテル。右隣のビルのシャッター部分と階段の跡の比較。】


●復興支援本番へ・・・ジョイントコンサート・区長親書・楽器寄贈・義援金寄贈

その後、大槌・山田・宮古を訪問経由し盛岡のコンサート会場へ入りました。慌ただしい中、岩手の皆さんと顔を合わせ、真剣ながらも和やかな雰囲気でリハーサルが行なわれました。リハーサルの最後に参加メンバーの前で話す機会をいただきましたので、音楽監督として「今まで25年間、板橋区吹奏楽団が吹き繋いできた想い出の一杯詰まった楽器を、本日ようやく、ここ岩手の地に持って来る事ができました。明日からは、私たちの想い出を創ってきた楽器が、同じ音楽を愛する皆さん、釜石の皆さんによって、これからの『未来の想い出』創りのためにお役立ていただきたいと思います。そして地元で待っている釜石市の皆様のために、私たちの想いを吹き繋いでいってほしいと思います。」と挨拶させていただきました。

板橋区吹奏楽団 復興支援 物語 式典の打ち合わせをする忍田音楽監督と草なぎマネージャー  板橋区吹奏楽団 復興支援 物語 岩手県社会人吹奏楽協議会 ジョイントコンサート 本番前のリハーサルの様子
【式典の打ち合わせをする忍田音楽監督と草なぎマネージャー / 本番前のリハーサルの様子】


リハーサルも終了し、会場後に有志によるロビーコンサートも開かれ、いよいよ演奏会本番となりました。140人で奏でる演奏は迫力があり、ご来場いただいたお客さまにも満足していただけたことでしょう。また、上野団長の挨拶・楽器寄贈式典も滞りなく進行され、無事演奏会を終了することができました。

板橋区吹奏楽団 復興支援 物語 岩手県社会人吹奏楽協議会 ジョイントコンサート 本番のの様子


楽器寄贈式典では、釜石市民吹奏楽団団長の野舘様より謝辞の言葉(後述)をいただきました。上野団長とかたく握手を交わし、深々と何度もお辞儀をされていた野舘様の姿は一生忘れられないシーンとなりました。大きなエールの拍手に会場は包まれたのは言うまでもありません。ステージ上のメンバーとご来場のお客様の目には涙が浮かんでいました。一見、楽しく元気そうに演奏していても、深い哀しみを東北魂というベールに包み隠しているだけだったのです。板橋区吹奏楽団のメンバーはこの『哀しみの場』を共有する事で、被災した人々と共に歩む決意をしたはずです。


●別れ、そして再会の約束。

終演後の控室で舘野様と別れの挨拶をしました。野舘様からは「頂いた楽器を大切にし、この楽器で演奏会を開催できるようになった時には、必ず招待したい」と申し出がありました。最後に「負げねっすよ、釜石!」と精一杯の笑顔を見せてくれました。上野団長からは「いつか東京に来ていただき、一緒に演奏しましょう!」とお互いに約束を交わしました。遠く離れていても、音楽を通して岩手そして釜石の吹奏楽仲間と結ばれた友情の絆は、これからも続いていくことでしょう。

板橋区吹奏楽団 復興支援 物語 楽器寄贈  終演後の様子。板吹と釜石市民吹奏楽団は再会の約束をした。  板橋区吹奏楽団 復興支援 物語 楽器寄贈 思い出の楽器は板吹と別れ、釜石へと向かった。
【終演後の様子。板吹と釜石市民吹奏楽団は再会の約束をした。 / 想い出の楽器は板吹と別れ、釜石へと向かった。】


以上のように、被災地の状況がわからないまま見切り発車した復興支援プロジェクトは無事終了しました。ここで一旦終了となりますが、被災地への継続的な支援を念頭に今後も活動していく必要があると考えています。

最後になりましたが、板橋区民、板橋区、板橋区文化・振興財団の関係各位には、これまでも多くのご支援、ご指導をいただき感謝申し上げます。板橋区吹奏楽団の『音楽文化の啓蒙と振興』という理念の追求と使命達成のために、より一層活躍できるよう微力ながらお手伝いをさせていただきますので、今後ともどうぞ宜しくお願い申し上げます。

板橋区吹奏楽団 音楽監督:忍田博明



●【参考資料1】板橋区吹奏楽団 上野裕紀団長の挨拶

本日はジョイントコンサートの開催、誠におめでとうございます。この東北の地でのコンサートに参加させていただき、このように一緒に演奏させていただく事ができ、団員一同大変感激しております。本当にありがとうございます。

本年三月十一日、東京で生活している私たちにとっても決して忘れることのできない一日となってしまいました。東京の街も未だかつてない大混乱に陥りました。それ以上にテレビに次々と映る被災地の変わり果てた姿に、言葉を失い現実を受け入れることが出来ませんでした。

あの日以来、私たちも不安な日々を過ごしましたが、幸い団の楽器には大きな被害もなく翌週には活動を再開することが出来ました。活動が出来ることに喜びを感じる一方、私たちも何か復興のお役に立てることがないかと思い、六月五日に開催しました第二十五回定期演奏会を「復興支援チャリティ演奏会」として開催させていただきました。「がんばろう、日本!」を合言葉に会場のお客様と一緒にボードを掲げて日の丸を作り、義援金を集め、全日本吹奏楽連盟を通して東北吹奏楽連盟に寄託させていただきました。

そして本日は、当団団員とその関係者から募った楽器に加え、当団二十五周年の楽器買い換えにより、今まで二十五年間使用してきた楽器を釜石市民吹奏楽団様に有効活用していただきたいと思い、寄贈させていただきます。

この大災害で多くの楽器が使えなくなってしまったとお伺いしています。学生バンドには多くの支援の和が広がっていますが、社会人バンドにはまだまだ支援が行き届いていないのが現状ではないかと思います。同じ吹奏楽を愛する仲間のため、今回このようにご縁のありました釜石市民吹奏楽団様の復興を支援したい思いと、これからの東北地方復興のメロディーを奏でていただきたい思いから、楽器を寄贈させていただくことになりました。

音楽には人々を元気にさせるチカラがあると信じています。今回寄贈させていただく楽器を演奏して元気になっていただき、その演奏を聞いた多くの人に元気や勇気を与えていただくことで、音楽文化を絶やさず守り続けていってほしいと願っています。

話は変わりますが、私たちは今朝、この会場へ来る前に沿岸地域を視察させていただきました。あの日から半年以上が経った今も通常ではあり得ない光景が広がっていました。今日見た被災地の光景、一緒に演奏して触れあって感じた全てのことを大切にし、私たちはこれからも音楽のチカラを信じて、沢山の人に元気や勇気を与えていきます。

本日のコンサートを通して、東北の地にすむ皆さんと私たちの心は一つであることを感じました。岩手と東京、それぞれ住む場所は違いますが、心を共にして沢山の人に元気や勇気を与えていきましょう。

東北地方の皆さんが一日も早く通常の生活に戻れることを心から祈念し、挨拶とさせていただきます。本日はありがとうございました。

平成二十三年十月二日
板橋区吹奏楽団 団長:上野裕紀



●【参考資料2】釜石市民吹奏楽団団長 野舘憲一様からの謝辞(書き起こし)


皆様こんにちは。釜石市民吹奏楽団団長の野舘と申します。今日は、楽しい演奏の場に水を差してしまうかもしれませんが、少しお時間を頂戴しまして、ご挨拶をさせていただきます。

板橋区吹奏楽団の皆様、今日は多大なる楽器のご支援を頂き、本当にありがとうございます。団を代表いたしまして、心より御礼申し上げます。

当団は、3月11日におきました東日本大震災、その後の大津波で、普段楽器を預けさせていただいている楽器倉庫と、練習場所として、ホームグラウンドとして活動させていただいている釜石市民文化会館が被災いたしました。団が所有しています打楽器、大型楽器をすべて喪失、楽器も9割以上が水に浸かってしまったという状況です。

幸いにも団員は全員無事が確認されまして、その点ではホッと胸を撫で下ろしたのですが、その後どんどん入ってくる情報で、ご家族、ご親戚、ご友人を亡くされた方、お仕事や住宅といった生活の基盤を失った方が非常に多く、大きなショックを受けました。

当団は、北は宮古市、南は宮城県気仙沼市から団員が集まっています。震災後何とか集まれないかとは思いましたが、津波によって、橋桁、信号、それから街灯といった交通のインフラを失い、集まるにも非常に危険な状況が続きました。

団員の安全が一番、そして団員それぞれが生活基盤を再建するのが最優先と考えて、今年3月末に一年間の活動休止を宣言させていただきました。ただ一年後には、「必ず復活する」という、目標をもった活動休止とさせていただきました。

そうはいいましても、だんだん人が集まれるようになってくると「楽器が吹きたい」という声が非常に多くなり、6月の終わりから一週間に一回ですが、何とか楽器を吹けるスペースを確保しまして現在に至っています。しかし、多くの楽器を喪失していますので、釜石市民吹奏楽団単独でステージを踏むということは叶わない状態です。

今回、板橋区吹奏楽団の皆様から、きめ細かいご支援、想い出など気持ちのこもった楽器を沢山頂戴いたしました。本当にありがとうございます。これで私たちも、なんとか演奏活動をさせていただくことができるかと思います。

震災後、避難所等で県内外から音楽を釜石に届けてくださる皆様の演奏を耳にしました。普段、演奏を『届ける側』の活動をしておりましたので、「どうして私たちはここにいるのだろう・・・」と、もどかしい気持ちで一杯になりました。

今後は、本日頂きましたご支援、ご声援に応えるべく、沿岸の皆様、県民の皆様に
音楽を届ける活動、そして地域に根ざした演奏活動を精一杯頑張って行きたいと思っております。

最後になりますが、楽器の支援を頂戴する窓口としてご尽力いただきました、盛岡吹奏楽団団長の安倍様にもお礼申し上げまして、私のご挨拶とさせていただきます。

本日は誠にありがとうございました。

釜石市民吹奏楽団 団長:野舘憲一


板橋区吹奏楽団 復興支援 物語 釜石の復興ステッカー 「 負げねっすよ 釜石 」  【釜石の復興ステッカー】




Copyright (C) 2011 Itabashi-ku Symphonic Wind Orchestra All Rights Reserved.